伝説の隣人たち-桜池院の恵深住持- (点字毎日新聞)

2009年1月15日点字毎日活字版に、櫻池院に住んでいた恵深という、盲目ながら高野山検校にまでなった700年前の住持について紹介されました。
現櫻池院住持でも聞いたことのないお話しで、櫻池院の歴史が一つ、ページに刻まれました。
ご興味のある方はぜひ読んでみてください。

2009.1.15(木) 点字毎日新聞「伝説の隣人たち」 48  月一回掲載

桜池院の恵深住持

知らなかった先人浮かぶ活躍

「盲検校(けんぎょう)」とよばれた鎌倉時代の僧、恵深(えじん)の名を知ったのは、昨年11月に書いた 「高野山五輪の塔」の話を調べているときだった。検校というのは、後世使われた盲人の位ではなく、寺院で僧侶と事務を監督する職の名称で、高野山検校は高野山すべてを統括する要職だという。

「日本仏教人名辞典」によると、生年は不明、没年は1270年6月6日。和泉(大阪府)の人で、桜池院(ようちいん)に住み、「勉励のために失明するが、その学力は優れたものであったという。1269年、高野山検校となる」とある。しかし、ほかに文献や資料が見つからず、桜池院に問い合わせてみることにした。

桜池院は、高野山の総本堂に当たる金堂前にある。平安時代末期、白河天皇の皇子(みこ)、 覚法親王が開いた寺で、後年、後嵯峨上皇が御幸の際、池のほとりに咲く桜の風情に「桜咲く木の間にもれ来る月影に心も澄める庭の池水」と詠まれたことから、「桜池院」と号したという名刹(めいさつ)だ。

現在は、高野山の参詣客の宿坊としても知られている。しかし、お返事は意外なものだった。桜池院住持の娘として、この寺で生まれ育ったあらた野尚子(あらたのしょうこ※)住持が、「その方については初めて聞きました」という。院の過去帳には、覚法親王の次の2代目住持として、「検校執行法院恵深」の名があるが、「泉大鳥郡の人。学徳甲科(学問で傑出していた)」しかわからない。代々語り継がれてきた話などもないという。

途方に暮れているとしばらくして、あらた野住持から、高野山大学に問い合わせるなどして入手した資料が届いた。 江戸時代に編纂(へんさん)された「本朝高僧伝」と「紀伊読風土記高野山の部」のコピーで、それによると、恵深は覚法親王の弟子で、非常に学才があり、桜池院にあって高野山の「八傑」と言われた。苦学のため失明したが、記憶力に優れ法論の場では天賦の弁舌をふるった。検校に就任すると人々は「盲検校」と呼んだ。

そして、「高僧伝」は、古代中国では左丘明が失明後、「国語」を著したというが希有(けう)なことだとし、「恵深公は仏法論議の場で冠たるものであり、検校職を務めた。皆の意見といえども、恵深公の知徳が凡庸にすぎなければ、ここに至ることがあるだろうか」と評している。「紀伊続風土記」では、恵深は盲人であったが、徳と学業においては「盲にあらず」とし、彼を検校に推し、その大役を支えた人々もまた「盲にあらず」と記している(ここは盲を「理に暗い」の意味で使っているが、江戸時代の文であり、容赦願いたい)。そして、検校になった翌年、63歳で没したとある。

僧という職業でもあり、短い漢文なのでその人の体温を感じるまではいたらなかったが、あらた野住持の尽力によって、まったく知らなかった先人の姿と、彼の活躍を可能にした鎌倉時代の高野山の様子が浮かび上がってきた。いきなり持ち込んだ700年以上前の話を調査してくださった住持には感謝に堪えない。

この過程でもう一つ、縁を感じたことがある。桜池院は、2002年秋に、盲導犬同伴の視覚障害者のお遍路さんに宿を提供した。そのとき、「本当のお接待というこのを勉強させられました」という桜池院には、昨年秋も「クラブツーリズム」のバリアフリーツアーで、盲導犬同伴のお遍路さんたちが宿泊した。「盲検校」の寺は、知らず知らずのうちに、視覚障害者ゆかりの宿になっていrたのである。 (岡田満里子)

※・・・当院住持あらた野尚子の「あらた」は余という字の下に田と書く漢字を使います。通常のパソコンでは変換できませんのでひらがな表記にさせていただきました。

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